「……私は後悔していません。私はあなたのお父さんと出会ったおかげで、こうして門を閉じた後も、あなたと一緒に過ごすことが出来た……とても、幸せでしたよ…………」
それは、リドルの母エルシエルが残した最後の言葉――。
リドルの中に、父クルセイダスの記憶は殆どない。とにかく明るく、しかしどこか寂しさを感じさせる面影だけが残っている。
あの時空すらねじ曲げるリドルの育った大迷宮の奥。
リドルの父クルセイダスと母エルシエルは、ある日突然幼いリドルを残して二人で旅立ち、それからしばらくして戻ってきたのは、力を失って衰弱しきった母だけだった――。
後に母から聞いたが、二人は門の力を永続的に弱める方法を見つけ、それを実行したのだという。その結果父は命を落とし、母はその力の殆ど全てを失った――。
――そう、リドルは知っている。
大門番時代の幕開けとなったあの門番クルセイダスと魔王エルシエルの戦いが、実は愛し合い、幸せな家庭すら築いていた二人によって計画的に行われた、自作自演の戦いだったことを――。
詳しくはわからないが、あの魔王討伐の伝説の戦いは、二人が門を封じるために行ったものだったのだ。そして戦っているように周りからは見えたなんらかの行いで、クルセイダスは命を落とし、母は門の力を引き出す術を失った。
門の力に巻き込まれ、長らく門の領域に晒され続けていたリドルたち次元漂流者の集団は、世代を重ねる毎に門の力を行使出来る者が生まれるようになっていた。
リドルの座標の力や、ルルトアの物体の大小を操る力も、全ては門の持つ力を行使したものだ。そしてそんな中、リドルの母エルシエルの行使できる力は絶大だった。
今思えば、おそらくエルシエルはリドルと同じく門と融合していたのだろう。エルシエルが命を落としたことで、宿主を失った門は娘であるリドルを新たなる座標と定め、融合を試みたのだ――――。
● ● ●
『――――ああ、あれはまだ俺が五歳だった頃の話だ。俺がナーリッジの町外れで魔物に襲われたところをクルセイダスが助けてくれたのだ』
『五歳って……ヴァーサスって今おいくつでしたっけ?』
『二七だ』
『ですよね? うーん?』
それは、かつて出会ったばかりのリドルとヴァーサスが交わした会話――。
この時リドルの脳裏に浮かんだのは、【時空を跳躍する迷宮が当時のヴァーサスの近傍に現れ、まだ命を落とす前の父がヴァーサスを助けたのだろう】という結論だった。
それならば、実時間では三十年前に命を落としたと言われるクルセイダスが、それから三年後にヴァーサスを助けてもなんら矛盾していない。
しかし――。
今、リドルが目にするクルセイダスの姿は、その想像を根底から覆すものだった――――。
「お……父さん……っ?」
「クルセイダス……ッ!?」
闇の中から現れた父の姿に、二人のリドルはそれぞれ全く違う反応を見せる。
長く伸びたぼさぼさの黒い髪に無精ひげを生やし、穏やかな黒い瞳にがっしりとした体格。疲れ切った様子だが、今もその手には二人がよく知るヴァーサスの愛槍――――全殺しの槍がしっかりと握られていた――。
リドルにとって父は幼い頃に見たきりの、しかしそれでも世界のために自らを犠牲にした正真正銘の英雄だ。記憶はおぼろげでも、母エルシエルはいつも父の素晴らしさや、父との幸せだった日々の話をリドルに語って聞かせてくれた。
だが黒姫にとってはそうではない。幸せそのものだった地下での暮らしを破壊し、母を殺し、友人、知人の虐殺を先導した張本人である。
しかも黒姫は、この世界のリドルよりも遙かに長く父と一緒の時間を過ごした。その記憶は鮮明に今でも残っており、数千年の時が流れた今でも彼女の心に昇華しきれない深い傷跡となって残っている。
そんな複雑な思いを見せる二人のリドルの前で、今にも消えてしまいそうな小さなヴァーサスの髪を優しく撫でるクルセイダス。
クルセイダスは、街の人々が認識できないほどに希薄化した小さなヴァーサスの存在を認識していた。一方、小さなヴァーサスの何も映さぬ瞳も、クルセイダスの存在だけはその青い瞳にはっきりと映し出されているように見えた。そして――――。
「そんな……これ、お父さんも……」
「クルセイダスの……領域まで…………」
二人の視線の先。自らの膝に頬を乗せたヴァーサスを慰めるクルセイダス。
その光景はまるで、本当の親子のふれ合いのようにも見えた。だが――――。
だが、そのクルセイダスの肉体もまた、ヴァーサスと同じく消えかかっていた。
それはやはり、ヴァーサスと同様の存在の希薄化――。
そもそも、このように人の存在が希薄化し、消えかかりながらもその存在を維持しているという状態自体、リドルも黒姫も初めて目にする現象だった。
二人がどうしてこうなったのかもわからないし、なぜこんなことになるのかもわからなかった。わかるのは、小さなヴァーサスとクルセイダスの存在が間もなく跡形も無く消え去るということだけだ。
もし今目の前にいるクルセイダスが、大迷宮から自力で外出していたというのであれば、こんなことはあり得ない。
なぜなら、今目の前にいるヴァーサスとクルセイダスはそのどちらもが明日にも……いや、それどころか数時間後にでも消滅してもおかしくないほど弱り切っていたからだ。この状態から門を封じるためにエルシエルと共闘したとは到底考えられなかった――――。
「お父さんは……門を閉じた後も生きていた……」
「前に白姫から聞いた話ですね……でもどうしてこうなったのかはわかりませんが、この様子からすると、クルセイダスももう限界ですよ…………」
「わからない……一体、なにがどうなっているのか、全然わからないです……っ!」
目の前の現実に混乱するリドル。しかし今の二人にこの時間軸への干渉は行えない。ただ目の前で起こる、既に過ぎ去った世界を見届けることだけが今の二人にできることだった。
「まもるって……?」
「……そうだな。なかなかに難しいが……自分にとって大事な物や人が傷ついたり、壊れたりしないように努めることだ。わかるか?」
「……?」
「ハッハッハ! まだ今のヴァーサスには難しいかもしれないな! だがそれでいいのだ!」
クルセイダスは不思議そうに自分を見上げる青い瞳に満面の笑みを浮かべて笑った。そして再びヴァーサスの頭を撫で、言葉を続ける。
「……守るというのはとても難しい。それを行うのも、何を守り、なぜ守るのかも。全て自分で考え続けなければならないのだ。ヴァーサス…………君が今感じているその疑問を、どうか大切にしてくれ……」
「たいせつ…………?」
小さなヴァーサスは呟くと、自分を撫でる大きな手の穏やかな温もりに目を細め、か細いあくびをして眠そうに目を擦った。
「さあ……今日はもう休むのだ……。大丈夫、君はまた目を覚ます。そうなるように、俺がここで君を守ろう……」
「…………うん」
「おやすみ、ヴァーサス……良い夢を見るのだぞ」
静かに目を閉じ、クルセイダスの膝の上で穏やかな寝息を立て始める小さなヴァーサス。
その光景は、あまりにも儚かった。
それはまるで、安物の配信石から映し出された質の悪い記録映像に似ていた。
どんよりと灰色に塗り込められた景色と、ぽつぽつと降りしきる雨。そしてその雨から身を隠すように、薄汚れた門の影で身を寄せ合って同じ時間を過ごす、今にも消えそうな二つの透明な領域――――。
小さなヴァーサスが穏やかな眠りについたのを見届けたクルセイダスは、その疲れ切った顔に笑みを浮かべ、ヴァーサスの額にそっと手を当てた。
クルセイダスの手が僅かに輝き、小さなヴァーサスの体が僅かにその存在感を強め、おぼろげな輪郭を明確にする。
そしてそれと反比例するように、クルセイダスの残り僅かな輝きは、ますます小さくなるのであった――――。