「止めるべきは、心……」
星歴九七八年。
一の節は終わり、二の節の初め。
先代女王ソーリーンの死去と、自身のエリンディア女王への即位。
二つの大仕事を終えたニアは、休む間もなく帝国との対峙に向けて準備を進めていた。
「ソーリーン様の残して下さったものの中に、私への指示はひとつもなかった……」
今、ニアの目の前にはソーリーンが残した各地から寄せられた無数の諜報資料の束があった。
そしてそれ以外にも、辺境の小国相手にも誠意を持って行われていた、様々な外交文書の山がうずたかく積み上げられていた。
だがそれら無数の文書の中に、残されたニアに具体的な方策を示す文章は一字たりとも書かれていなかった。
「〝知略とは生きること〟……たとえ今、この世界で最も優れた策だったとしても、次の瞬間には最悪の愚策にもなる……」
もはや、偉大なる氷獄の魔女はこの世を去った。
ソーリーンの目と耳は、刻一刻と移り変わる世界の姿を見聞きすることはない。
すでに死人となった者が残す〝命が宿らぬ策〟など、今を生きる者の邪魔になるだけだと……ニアには、そんなソーリーンの厳しくも暖かい言葉が聞こえたような気がした。
「ありがとうございます、ソーリーン様……剣皇の戦いは、必ず私が止めてみせます。貴方の教えを受けた、最後の弟子として……」
ソーリーンがニアに残したもの。
それは策でも術でもない。
どこまでも深い〝愛弟子への信頼〟こそ、ソーリーンが最後に残した、ニアへのこれ以上ない教えだった。
そのことに思い至ったニアは、眼鏡の奥に浮かびそうになる涙をぐっとこらえ。
先代から与えられた最後の課題を紐解くべく、うずたかく積まれた〝師の遺産〟を見据えた――。
――――――
――――
――
「お師匠……」
エリンディア王城。
工房で整備を受けるイルレアルタの操縦席。
シータはうとうとと目を閉じるナナを抱き、亡き師への思いを巡らせていた。
『いいかいシータ……君のその優しい心は、いつだって君の進むべき道を照らしてくれている。もしまた君が間違ってしまったと思う時や、悩んだりすることがあれば、その時は――』
かつて、エオインがシータに伝えた無数の言葉。
ソーリーンから伝えられた師の過去は、その言葉に込められた思いがどれだけ深く、重いものであったのかをシータに理解させた。
誰よりも自由と孤独を愛しながら、エオインはたった一人の友のため、そのすべてを投げ打って戦うことを選んだ。
そしてその果てで英雄となり、最愛の友と別れ、最後にはその友の命を受けた騎士達に討たれたのだ。
「きっとお師匠は、〝それでも良かった〟んですよね……? 大好きだったあの人が変わってしまっても、拒絶されて、もう一緒にいられなくなっても。後悔なんてしてなかった。でも……」
シータは開け放たれた操縦席から、工廠の先に広がっているであろう夜の星空に、師の寂しそうな面影を重ねた。
「こんなところにいたのか! 探したぞ、シータ君!」
「うわぁ!?」
だがそうして思い浮かべた師の横顔は、突如として現れたリアンの姿によって霧散する。
イルレアルタの操縦席で探し求めたシータを見つけ、リアンは開放されたハッチの端に腰を下ろした。
「突然すまない。少しいいだろうか?」
「どうかしたんですか?」
「うむ……実は、君に謝らなければならないことがあって……」
「謝りたいこと?」
「ニアの話では、またすぐに帝国との戦いが始まるそうだ。だから、その前に伝えておかねばと思ってな」
リアンにそう言われ、シータは思わず首を傾げる。
一方のリアンは真剣そのもの。
研ぎ澄まされた氷の刃にも見える美貌をシータに向け、覚悟を決めた様子で口を開いた。
「その、なんだ……ずっと前に、私がどうして君に優しいのか聞かれたことがあっただろう?」
「そうでしたっけ?」
「そうだ! その時は私が寝てしまって答えられなかったのだが……実は、君は私の死んだ弟に似ていてな……」
「亡くなった、弟さん……」
「帝国が攻めてくるよりも前のことだ……エリンディアで流行病が広がったことがあったんだ。弟は、運悪くその病にかかってしまってな……」
そう語るリアンの表情は辛そうではあったが、すでに喪失の悲しみは乗り越えているように見えた。
事実として、シータはここで語られるまで、リアンにそのような過去があることなど全く気付いていなかった。
「私がいつでもどこでも眠るようになったのは、弟が死んでからだった。眠ってさえいれば、辛いことも悲しいことも考えなくてすむだろう?」
「それであんなに……」
「ただ、最近はそうじゃないんだ。君と出会ってから、私の居眠りもすごく減ったし……この前だって、えーっと……夜になかなか眠れなくて、今もその……君に助けてもらっているし……」
「そういえば……たしかに最近のリアンさんって、そんなに居眠りしてませんね」
「そうなのだ! つまり謝りたいことというのは、私が断りもなく、君を死んだ弟の代わりのように見ていたことだ! 本当にすまなかった!!」
「ええっ!?」
「そしてもう一つ! こちらは謝罪ではなく感謝なのだが……」
リアンは勢いのままに言い切ると、今度はなぜか恥ずかしそうにシータから目を逸らす。
「その、多分なんだが……私があまり居眠りをしなくなったのは、君のおかげだと思う。なんといっても、夢の世界にシータ君はいないし……いや、正直に言うといることもあるのだが……」
「そうなんですか?」
「いや違うっ! と、とにかく……今の私は寝ている時よりも、起きている時の方が楽しいと思ってて、それは全部君がいるからで……っ! だから、まずは君に感謝を伝えなければと――!」
もはやリアンは、自分の声が工房中に響き渡るほど大きくなっていることにも気付いていない。
そしてその声を聞いた作業員達や指揮をとるマクハンマーが、微笑ましく二人のやり取りを見守っていることにも気付いていなかった。
「ぐわー! 自分でも何を言っているのかわからなくなってきた……! すまないシータ君、私はなんて馬鹿なんだ……っ!」
「あ、いえ! ちゃんとわかりました。僕もリアンさんにそう言ってもらえて、とっても嬉しかったです」
慌てふためくリアンの想いを、シータは正面から受け止めた。
「僕もリアンさんと同じです……お師匠がいなくなって、ナナと二人っきりになった僕がここまで頑張れたのも、リアンさんがいてくれたからですし……」
シータはそう言って微笑むと、苦悶するリアンを安心させるように自らの手を彼女の手に重ねた。
「僕は死にません……そして、リアンさんのことも守ります。僕も、リアンさんともっと一緒にいたいんです」
「シータ君……」
重ねられた手のぬくもりに、リアンはわずかに体をこわばらせ……しかしやがて、柔らかく身を任せて目を閉じた。
「私も同じ気持ちだ……ありがとう、シータ君……」
迫る決戦の時を前に、もはや戦友というだけでは到底及ばないほどに深くなった絆を、二人は改めて確かめ合う。
そしてそれは、すでにこの世を去った数多の命から託された願い。
愛する師が、死の間際まで抱いていたであろう願い。
大切な人の傍に少しでも長くいたいという、ささやかな願いだった――。