「くそっ! 逃げられた……っ!」
上空に開いた大穴に消えた五玉と煉凶。
奏汰はその光景に悔しげな声を上げると、自身の拳を握り締めた。
「放っておくのじゃ。雑魚鬼と違い、やつらの狙いはいつも曖昧じゃ。焦り、深追いすれば奴らの思うつぼじゃぞ」
「凪はあいつらともう何度か戦ってるのか?」
「んにゃ、あやつらとは初対面じゃ。位冠持ちとは何度かやりあっておるがの。しかし、それよりもじゃ――――」
凪は忌々しげに空を睨み付ける奏汰をなだめると、まだ暴れ足りない様子の奏汰の丁度胸元めがけ、突然ばちんという小気味よい音を立てて自身の小さな手の平を叩きつけた。
「この――――大馬鹿者がっ!」
「いてっ!?」
突然素肌を叩かれた奏汰は思わず声を上げた。しかしその痛みも一瞬。
暫くすると、先ほどまで奏汰が感じていた勇者の青の反動による疲労や全身の痛みが、まるで雪が暖められて溶けるように消えていく。
見れば、凪がその白い手をどけた奏汰の胸元には、なにやら難しい字が書かれた符が貼り付けられていた。
「あれ……?」
「それは、私が傷や疲労の回復に使う特別な符じゃ。少しはマシになるじゃろ……」
呆気にとられる奏汰にそう言うと、凪はあからさまな怒りを込めて――――しかしできる限り冷静に言葉を続けた。
「お主……一体いつからあのような戦い方を続けてきた? もうとっくになにもかも折れる寸前だと、自分で気付いておらんのか……?」
「折れる……? 俺が……?」
凪のその言葉に、首を傾げて不思議そうに自分の体を見つめる奏汰。
だがそんな奏汰の様子とは裏腹に、凪の眼差しは真剣そのものだった。
「昨夜も今も、奏汰が私や皆を助けてくれたことについては本当に感謝しておる……じゃが私は、どういうわけかお主にこれ以上戦って欲しくない……! まだお主のことなど何も知らぬが、どうにもこうにも辛いのじゃ……っ!」
「凪……」
燃えさかる夜の江戸で出会ってから今まで、気丈で泰然自若とした凪の姿しか見てこなかった奏汰。
奏汰は、今こうして自分の目の前でやり場のない想いを抱え、摘まむようにして奏汰の着物の袖の端を握る凪に、かけられる言葉を持ち合わせていなかった。そして――――。
「勇者よ……貴様の戦い、千年ぶりだが確かにこの目で見させてもらった」
互いにこれ以上かけられる言葉を持ち合わせないまま立ちすくむ二人の間に、戦いの帰結を見届けたピンク色の謎生物――――影日向大御神が、その体から伸びた細長い足をくねらせてその場へとやってくる。
「奴らのような位冠持ちはいつもこうなのだ。戯れのよう人里に現れては、天災のように人の命を奪い、営みを破壊する。しかし、決して人類を根絶やしにしようとはしない」
「……気に食わんが、正直なところそれで助かっているとも言えるのが腹立たしいところじゃな。位冠持ちに一斉にかかってこられれば、とっくに江戸など綺麗さっぱりなくなっておったじゃろうからな」
「いや、俺がここに来たからには、もう鬼の好きには絶対にさせない! 凪には悪いけど……たとえ俺がどうなっても、そんなことを見過ごしたりは俺にはできないっ!」
「お主……! どうしてわかってくれんのじゃっ!?」
恐るべき鬼の脅威を前に、決意も新たに一人気勢を上げる奏汰。だが凪はそんな奏汰を止めようと声を荒げる。そしてさらには――――。
「無理だな。勇者よ、今のお前では真皇の相手は愚か、位冠持ち相手にすら勝利できるか危うい」
「……なんだって?」
かつて、大魔王として世界そのものの支配を企てた者の鋭い眼光が奏汰を射貫いた。
たとえ見た目がピンク色のキモい生物に変わろうとも、やはりその魂は大魔王時代のままなのだ。
「今の戦いを見て確信した。貴様は余と戦った時よりも遙かに弱くなっている。かつての貴様はもっと強く、もっと輝いていたはず。勇者奏汰よ……ここに来るまでの間、いったい貴様に何があったのだ……?」
自身に向けられる全てを見透かすような大魔王の瞳。その瞳に見つめられた奏汰は僅かに俯き、なにやら思い出すようにして思考を巡らせると、ゆっくりと顔を上げた。そして――――。
「――――いや、だってお前にズタズタにされてからまだ三日しか経ってないし。傷も塞がりきってないし」
「――――そうか。色々とすまんな」
「のじゃーーーーっ!? やっぱりお主のせいじゃったかこのボンクラ穀潰し疫病神ーっ!? かくなる上はこの凪姫命が、お主を跡形も残さず祓い清めてやるからそこに直りおれーっ!」
こうして、ピンク色の謎生物はしばらく巨大な桶の中で塩漬けにされることになったのであった――――。