「ここは……」
「ん、起きたかの?」
目を覚ました奏汰は、自分が暖かな布団の上に寝かされていることに気付く。
横になった状態から見上げて正面には大層立派な木製の骨組みの天井が見え、どこか懐かしい、古い土と木の匂いが奏汰の心を落ち着かせた。
かけられた穏やかな声に反応して視線を向けると、そこには奏汰のすぐ隣で正座し、ちびちびちと湯飲みに口をつける凪がいた。
「ここは私の家じゃ。あんな道のど真ん中で寝ておったら風邪をひくぞ?」
「寝ていた……俺が?」
「……疲れていたのじゃろ。お主が鬼をあらかた倒してくれたおかげで町の皆も無事じゃ。礼を言うぞ、奏汰」
自分が戦場のど真ん中で眠っていたという事実に、困惑の表情を浮かべる奏汰。
そんな奏汰を見つめ、凪は見惚れるような笑みと共に感謝を伝えた。
「そうか……それなら良かった!」
奏汰はそう言って半身を起こすと、改めて横に座る凪に目を向ける。
艶やかな腰まである長い黒髪に、幼さの中に静謐さを纏った可憐な容姿。旺盛な好奇心を感じさせる大きな瞳には、どこか夜明け前の朝を思わせる蒼が混ざっている。
彼女の服装は奏汰もわずかに覚えがある現代の巫女服に似ていたが、黒の差し色が加えられた独特の色使いで、袴も袖も丈が短く、彼女の軽快で凜とした印象をさらに強めていた。
「悪い、君はたしか……」
「凪じゃ。神代凪姫命。長ったらしいので凪で良いぞ。この神代の社で巫女をしている者じゃ」
「ああ、そういえばそうだったな! 助けてくれてありがとう、凪!」
そう言って凪に笑みを浮かべる奏汰。だがそこでふと自分の姿に目を向けると、昨夜まで着ていた異世界の旅装束ではなく、薄い麻地の着物を着ていることに気付く。
「これは……服が違うような!?」
「ほむほむ。鬼の血やらなにやらでべちょんべちょんだったのでな。私が拭っておいたのじゃ。お主の体もくまなくぴかぴか! どうじゃ? 嬉しいじゃろ?」
「な、なんだってーーーー!? 全身って……ま、まさか……!?」
「なんじゃ? 褌の収まりが悪いなら私が締め直してやるぞ?」
「ぐわーーッ!?」
不思議そうに首を傾げる凪の口から発せられた追撃の言葉に、奏汰は顔を真っ赤にして悶絶の叫びを上げるのであった――――。
● ● ●
「ほれほれ、遠慮せず食うがよいぞ!」
「こ、これはああああっ!?」
清浄な気配に包まれた林の中の境内に、奏汰の大きな声が響いた。
凪と向かいあって畳の上に正座した奏汰は、四角い折敷と呼ばれる食器に並べられた焼き魚や野菜の漬け物、そして山盛りの白米にその目を大きく見開いた。
「ごはんだ! ごはんが、ある……っ! うおおおお……っ」
「うむ。米は貴重ゆえ、本来なら祭祀にしか出さぬのじゃがな。皆を鬼から守ってくれた奏汰への礼じゃ。好きなだけ、たらふく食うのじゃ!」
「ありがとう……っ! いただきます……!」
それは、異世界では決して食べることの出来なかった故郷の味だった。
七年間の異世界生活ですっかり薄れていた子供の頃の記憶が、一口ごとにはっきりと奏汰の中に蘇っていく――――。
「うまい……っ! うますぎる……くっ……うう……っ! うまい……っ」
「……そうか」
――――何度も何度も感謝を口にし、滝のように涙を流して鼻水すらすすりながら一心不乱に箸を動かす奏汰。そんな奏汰の姿を、凪は沈痛な面持ちでじっと見つめていた。
「まずは休め。お主には、休息が必要じゃ……」
呟くようにそう言って、凪はさきほど奏汰の体を清めた際の光景を思い出す。
少年とは思えぬほどに極限まで鍛えられた肉体。それらは全て敵を屠るため、剣を振るうためだけに最適化されたもので、もはや奏汰自身が一振りの刃のようですらあった。
さらに奏汰の全身は深く、無数の傷跡にまみれていた。しかし凪が戦慄したのはその傷の多さにではない。奏汰の体に残る傷跡のどれもが、なんらかの力によって無理矢理塞がれたように見えたことだった。
(昨夜の尋常ではない強さといい。奏汰は今までどこで何と戦っておったのじゃ? 人とは……ここまで戦いのためだけに生きられるものなのか……?)
我知らず、凪は痛みを堪えるようにして胸の前で手を握り締めた。
神代の巫女である凪にとって、鬼と戦うことは日常の中にある無数の責務の中の一つにすぎない。たとえ重要度が高くとも、鬼との戦いだけを行って生きていくことはこれから先もないだろう。
誰だってそうだと思っていた。
まず日常があり、その中で社会や他者との繋がりがある。
何者かとの命を賭けた闘争とは、その日々の中で発生する突発的な災難だと。
だが――――恐らく奏汰は違う。
(惨いことを……)
奏汰にとっては、今のこの平穏な時間こそが突発的な好運だった。
凪は自身のその思いを確信に変えつつ、奏汰への興味を深めていった――――。