勇者、帰れず
勇者、帰れず

勇者、帰れず

 

「うえーーん! おかあちゃーん!」

「オオオオオオ……」

 

 炎と煙に囲まれた道の中央。両親とはぐれて一人残された着物姿の少年の前に、禍々まがまがしい瘴気しょうきを放ちながら不気味に浮遊する、三メートルほどの筒状の物体が出現する。
 その筒からは鞭のようにしなる無数の触手が伸びており、そこから滴り落ちるドス黒い液体は、地面に付着するやいなや大地を溶かして白い煙をじゅうじゅうと上げた。

 この化け物こそが鬼。徳川の太平を脅かし、人々の平穏な暮らしを打ち崩す災厄さいやくの主。
 先ほどなぎ奏汰かなたが戦った個体とは似ても似つかぬ姿だが、これもまた鬼と呼ばれる化け物共の一種である。

 一体いつから存在するのかもわからず、なぜ現れるのかもわからない。
 分かっているのはただ一つ。鬼がこの世に生きる全ての者たちの敵であるということだけ。

 筒状の鬼は目の前で泣き叫ぶ少年を明確な獲物と見定めると、その無数の触手をしならせてその少年に襲いかかる。

 このままでは、目の前の少年は鬼によって為す術もなく惨殺される。そう思われた、その時――――。

 

「勇者タックル!」

 

 瞬間、少年の頭上を飛び越えるようにして現れた奏汰の雷撃をまとった体当たりが円筒形の鬼をぐにゃりとひしゃげさせる。
 鬼はあまりの威力に呻き声をあげることも出来ず、内部から破裂するようにして爆散した。

 

「あ……」

 

 あまりのことに呆気にとられて泣き止む少年の上に、砕かれた巨人の肉片が光の粒になって降り注いでいく。

 

「よく頑張った……もう大丈夫だからな」

 

 奏汰は怯える少年の頭に優しく手を乗せると、立ち上がって周囲を見回す。

 木造の見慣れない形の家が並ぶ大通りに、舗装されてはいないが、整えられた美しく歩きやすい道。それは奏汰が子供の頃に少しだけ見た記憶がある、かつての日本を紹介する動画の中の景色そのままだった。

 

江戸時代、か……。ここから俺が長生きしても、母さんには会えないんだろうな……」

 

 天を仰ぎ、今にも泣き出しそうな表情でそう呟く奏汰。
 そしてそんな奏汰の周囲に、先ほどの鬼と似た一つ目の鬼たちや、たった今粉砕した円筒形の鬼など、大小様々な化け物がわらわらと群がってくる。

 
 ――――この場に現れるまでの道すがら。奏汰は先ほどの少女――――凪から事の次第をあらかた聞いていた。

 

 この場所が、かつて奏汰が住んでいた日本であること。

 しかしここは奏汰が本来住んでいた時代とは違う遙か過去の時代であり、奏汰も聞いたことがない鬼という恐るべき存在が、大手を振って至る所に闊歩かっぽしているということも――――。

 

「ガアアアアアア!」

 

 燃えさかる炎を背に、意味も分からぬ叫び声を上げ、奏汰と少年めがけて迫る鬼の群れ。だが奏汰はそんな鬼たちを前に、ほんの僅かな間だけ目を閉じた。

 

 ――――行ってらっしゃい奏汰。今日も学校頑張ってね!――――

 

 ここは日本だ。この世界に女神はいない。
 つまり、奏汰はもう異世界に行くことも、元の世界に戻ることも出来ない。

 ようやく会えると思っていた。やっとただいまを言えると思っていた。
 たとえ地獄のような戦いの日々でも、一度だって忘れたことはなかった。

 遠くなった記憶の向こう。奏汰はたった一人、女手一つで懸命けんめいに自分を育ててくれた、優しい母の面影を振り切った――――。

 

「わかってるよ……たとえここがどこだろうと、俺のやることは変わらないっ!」

 

 奏汰は背負った長剣の柄に手を伸ばすと、鞘から引き抜いて正中に構える。
 そして全ての邪悪を――――かつて、異世界を滅ぼさんとした大魔王すら破壊した凄絶せいぜつな眼光を周囲の鬼に向けた。

 

「……来いっ! お前らの相手は俺だ!」

 

 その叫びと同時。奏汰の姿はかすみのようにその場から消え失せ、全ての鬼たちは無数の光刃によって痕跡こんせきすら残さず滅殺された――――。

 

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