どこまでも続く深い森。
幾重にも重なった木々の枝は太陽の光を大幅に遮り、降り注ぐ陽の光と影のコントラストをくっきりと大地に浮かび上がらせていた。
「我ら決して許されること無し――――この身尽き果てるまで、汝らの恨み消えること無しっ! 全挑発っ!」
瞬間、森の中にアルルンの気合いの入った叫びが木霊する。
苔むした大地をしっかりと踏みしめ、両手に盾を構えたアルルンが全挑発の力を解き放ったのだ。すると――――。
ドドドドド――――。
「う、うわわ……っ」
アルルンの立つ地面が小刻みに震える。
城塞都市サーディランで魔物の大群と相対したときと同様の、地の底から響くような音がアルルンのぴょこんとした小さな耳の中に飛び込んでくる。
アルルンの脳裏にサーディラン郊外で味わった恐怖が蘇り、心臓の鼓動がバクバクと早くなり、呼吸も浅くなっていく。そして、次の瞬間。
「ウーニャーッ!」
「うわーーーーっ!」
アルルンの目の前に、凄まじい勢いでアルルンめがけて突進してくる大量のネコの群れが飛び込んでくる。それらのネコ達は皆目を血走らせ、ウニャウニャと鳴きながらアルルンとの距離を一瞬で詰めると、そのままその濁流のような勢いにアルルンを飲み込んでしまった。
ここは猫の森。
サーディランから南に二百キロほど向かった先にある、古くから存在する神聖な森である。名前の通り多くの小さなネコが住みついており、ネコを頂点とした独自の生態系を構成している。
「あたた! うわー! た、助けてくださいフェア様ーっ!」
顔にネコから受けたひっかき傷を作り、更には全身にネコをぶら下げたアルルンが涙目で叫んだ。するとどうだろう。アルルンの周囲に群がっていた無数のネコ達がふわりと浮かび上がり、そのままふわふわと森の奥へと優しく戻されていく。
「ウニャー……シャーッ……!」
「――――全然駄目だな。これでは話にならん」
「大丈夫ですかアルルンっ! 今治してあげますからね!」
ネコが去って行くのと同時、ローブをはためかせながらその場に下りてくるフェアと、旅装束のピコリー。
ピコリーはすぐさまアルルンに駆け寄ると、かざした手を輝かせてアルルンの受けたネコのひっかき傷をたちどころに消し去っていく。
「ありがとうピコリー……ごめんね、何度も治して貰っちゃって……」
「気にしないでください。さっきも言ったとおり、私は魔法力も無限なんです。アルルンが傷つくのを見るのは辛いですけど……この程度の傷ならいくらでも治せますから……」
自身の隣で膝をつき、かいがいしく治癒の力を行使するピコリーに、申し訳なさそうに感謝を述べるアルルン。
そんな二人の様子を横目に、フェアは自身の指先を楽隊の指揮者がするように何度か振るうと、ふむと頷いてアルルンに声をかけた。
「アルルンよ。やはり貴様は単体か、もしくは貴様の中で同一とされるグループ全体かの二通りの範囲でしか全挑発を使えぬのだな?」
「うぅ……なんだかそうみたいです。実は僕もあの街で魔物の大軍に使った時以外は、多くても五体までの魔物にしか使ったことがなくて……」
「なるほど。自分の力が及ぶ範囲もろくに知らん状態で使っていたのか。なんとも危ういことよ」
フェアの言葉に、捨てられた子犬のような表情でしょんぼりとするアルルン。
今アルルンは、この森で全挑発を使ったタンクとしての修行を行っていた。
本来であればもっと踏み込んだ――――例えばタンクとしての身のこなしや、危機回避の訓練を行う予定だったのだが、フェアが全挑発について色々とアルルンに尋ねたところ、アルルンはその質問にうまく答えることが出来なかったのだ。
挑発可能な範囲はどの程度か。
挑発した相手がアルルンを狙う時間はどの程度か。
挑発する対象が集団だった場合、たとえば男性と女性を分けて男性だけを挑発することは出来るのか。などなどである。
実はアルルンは、それらについて全く試したことがなかった。
「すみません……僕も全挑発がどんな力なのか、今まで考えたこともないまま使ってしまってました……」
「ああ……いや。そうしょげるでない。貴様を責めているつもりはないのだ。今まで知らなかったのであれば、これから知っていけば良い。いや、むしろ手遅れになる前にこうして修練する機会が与えられたのだ、実に運が良かったと言える」
「そうですよアルルン。私たちと会う前に、街でしたような無茶でアルルンが死ななくて本当に良かった……。フェア様の仰る通り、アルルンの力についても、私たちと一緒に少しずつ勉強していけばいいと思いますっ」
「……はいっ!」
しょんぼりと俯くアルルンに、励ましの言葉を送るフェアとピコリー。
アルルンは二人の言葉にその大きな瞳を僅かに潤ませると、大きく頷いて力強く返事をした。
「アルルンよ、今現在のツインシールド家に、貴様以外の全挑発の使い手はいなかったのであろう?」
「はい。お父さんも、僕の弟も――――小さい頃に亡くなった祖母も、誰も全挑発のような力は持っていませんでした」
「うむ――――そうであろうな」
治療も終わり、再び元気よく立ち上がるアルルンに、フェアが改めて尋ねた。
実際、全挑発を使える者はアルルンの家族に一人としていなかったし、家族の中に全挑発について知っている者も誰一人としていなかった。
アルルンは、今までほとんど一人で自身の持つ全挑発についての研究をしなければならなかったのだ。
「よいかアルルン。私の知る全挑発は、本来万能かつ問答無用の力だ。たとえ世界の果てであろうと、たとえ相手が地上に存在する全ての魔物であろうと、全挑発の力から逃れる術はない。その証拠に、もし今この場で貴様がこの私に全挑発を使えば、私は躊躇なく貴様を消し飛ばしてしまうだろう」
「え!? フェア様でも抵抗できないんですか?」
「そうだ。もし私が全挑発を使われれば、一瞬で貴様への怒りと憎悪に囚われ、ただただ貴様を抹殺することだけを考える操り人形にされてしまうだろう。なんとも恐るべき力だよ」
「僕の、全挑発が――――」
フェアの話す全挑発の力に、驚きの声を上げるピコリーと、神妙な顔つきて自身の掌を見つめるアルルン。
フェアと長く旅を共にしたピコリーだからこそ、フェアの持つ強大な力は誰よりも理解している。そのフェアですら為す術なく敵愾心で満たしてしまう全挑発がどれほどまでに危険な力なのか。ピコリーはそこまで考えて背筋を凍らせた――――。
「なればこそだアルルン。貴様は全挑発を使えるタンクとして、なんとしてもその力を自身の理性と心の制御下に置かねばならぬ。それが貴様のためでもあり、世界のためでもある。それはわかるな?」
「――――はいっ!」
元気よく立ち上がり、再び決意漲る瞳で自身を見上げるアルルンに、フェアは満足げに微笑みながら頷くと、再びピコリーと共に巨木の上に上昇していく。
「よろしい。ならばもう一度だ。この森に巣くうネコ共を、全てではなく狙い定めて挑発するのだ。自身の力の流れを知れ。自身へと向けられる憎悪を支配しろ。ヘイトコントロールこそ、タンクに求められる最も重要な能力だ」
「わかりましたフェア様! 何度でもお願いしますっ!」
アルルンはそうして発せられるフェアからの教えを一字一句聞き漏らさぬように心を集中させると、地面に落ちた盾を再び構える。
アルルンの修行の日々は、連日夕暮れ時まで続けられたのだった――――。