黒い髪に鋭い眼光の青い瞳。肩幅の広い長身と長い手足。
目の前に立つ二人は、ヴァーサスの妻であるリドルが見ても外見だけなら殆ど見分けがつかない程に似ていた。
しかし――――二人には決定的に違う物があった。それはお互いの歩んできた人生の違い、蓄積した情報の違いと言っても良いかもしれない。
熱く燃えさかっているにも関わらず、傍に寄り添う者を決して傷つけようとしない暖かな光を放つヴァーサスの紅蓮の領域。
対して、反転者の領域は蒼く冷えていた。それは決して人を拒んでいるわけではない。しかしなんらかの要因を経て、反転者の領域はもはやほとんどが冷え固まり、二度と熱を持つことはない。そう確信できるような、凍える程の冷たい領域だった。
リドルと黒姫がそうであるように、別世界における同一人物は外見は勿論、領域においても似通っているのが普通だ。
いかに世界毎で精神性や歩んだ選択が違っても、領域はその人物の根源的本質を現わすもの。黒姫は普段キャラ付けとしてあえて自らの領域を黒く染めているが、名も無き神との戦いで見せたように、その本来の領域を示す色はリドルと同様の純白である。
赤と青。外見を見ずにその領域だけで個人を特定しようとすれば、二人が別世界における同一人物だとは到底わからなかっただろう。
それほどまでに、相対する二人を構成するエントロピーは対極だった。
「む……!? 二人とも気をつけてくれ! 俺は今この男から襲われている最中だ!」
「ヴァーサス! 無事で良かったです……! でも、その男は…………」
「あなた……反転者ですね……? 他の世界では私や私たちの両親が随分お世話になったみたいですけど、どうやらここでは私たちのヴァーサスに手も足も出なかったというところでしょうか? ざまぁないですね!」
『――――あの二人の娘共か。つくづく片付けなければいけない問題が多すぎるな』
リドルと黒姫が戻ってきたことに気づき、領域を展開しつつも安堵の笑みを浮かべるヴァーサス。黒姫もすかさずリドルを守るように領域を展開すると、激しい憎悪の感情が込められた赤い瞳を反転者へと向けた。
「まさか、あなたの正体が別世界のヴァーサスだったとは。少し驚きましたけど、これで納得できました。他の世界の自分を消して回っていたのも、こうしてヴァーサスに目的を阻まれる事態を避けたかったからですね?」
「な、なんだと!? こいつは俺なのか!? 俺はここにいるぞ!?」
「落ち着いて下さい! そんな間近で顔まで見てるのにまだ気づいてないんですか!」
『――――随分と脳天気なことだ。たしかに、俺は他の俺がどのようにしてあの場所へ至ったのかを観察したことはなかったな。少々慎重がすぎたようだ』
肩口を押さえ、流出する粒子を抑えながらも希薄化していく反転者。先のヴァーサスとの戦いで反転者が用いた漆黒の立方体は、その手の中で半壊し、破損していた。
――――ヴァーサスが最後に繰り出した因果収束の絶技は、反転者の因果結晶の力を上回った。
因果結晶と呼ばれるこの立方体は、あらゆる因果を自在に紡ぐ究極の因果律兵器だった。しかしヴァーサスが成し遂げた破滅と反転という矛盾因果の無限螺旋は、因果結晶が紡ぐことが出来る因果の限界を超えていたのだ。
結果として、ヴァーサスの一撃を受けた反転者の因果は今こうして潰えようとしていた。因果結晶の力で即時消滅は逃れたものの、あと数分もすれば反転者の因果は跡形も無く消え失せる。そのはずだった――――。
『――――迎えに来た。反転者。因果結晶でも駄目だったんだ? だからまだ早いって言ったのに』
『――――すまない、ロコの言う通りだった。今回は俺のミスだ』
その時、目の前で今にも消え失せようとしていた反転者の姿が転移する。ヴァーサスと黒姫は即座に気配を探るが、すでに声は直上。
そこには、傷ついた反転者を支えるようにして浮遊する、黒髪の女性の姿があった。
『これでわかった? あとどの程度必要なのか』
『そうだな。あと一押しというところか。今日の所はこれで引き下がるとしよう』
「待て! 俺を狙う殺人未遂犯を逃がすつもりはない! 色々と話して貰うぞ!」
「そうですよ! 私とヴァーサスがいるこの状況で逃げられるわけないでしょう!」
叫び、飛翔するヴァーサスと、その純白の領域で反転者の周囲を支配下に置く黒姫。この状況で逃走することはたとえどのような存在でも不可能。しかし――――。
『邪魔』
「――――っ!?」
「ぬっ!?」
ロコと呼ばれた女性が空中で軽く手を払った。
ただ、それだけだった。
だが、たったそれだけで領域を展開したヴァーサスは凄まじい勢いで逆方向へと弾き飛ばされ、黒姫が張った純白の領域は跡形も無く消滅した。
「――――!? 今のは!?」
『反転者が死にそうだから今は帰るけど、次は私がやるから。さよなら』
『ヴァーサスよ、お前も更なる高みへと至るが良い。俺はそれすらも越えてみせる』
「く……っ! 待てっ!」
叩きつけられた地面からなんとか立ち上がり、追いすがろうとするヴァーサス。ロコに庇われながら上空に浮遊する反転者は、そんなヴァーサスをその青い瞳でじっと見つめていた。
『ヴァーサスか……俺がそうではなくなってどのくらいの時間が経ったのか』
『呼び方を元に戻して欲しいならいつでもそうするけど』
『いや、いい。跳ばしてくれ』
『ん――』
反転者とロコはそのまま消えた。
それは、まるでリドルと黒姫の座標転移を使ったかのような消え方だった。
ヴァーサスは反転者が消えたその虚空を悔しげに見つめていたが、自身への襲撃が止んだことを確認した時点で大きく息を吐いた。
そしてこの場に戻ってからずっと心配そうに自分を見つめていたリドルを安心させるように、にっこりと笑みを浮かべるのであった――――。