それは、全てが始まるよりもずっと昔。
そう呼ぶことが可能ならば、最も過去の時空で起こった一つの悲劇。
――――詰めが甘い。
そんな言葉で片付けられるような状況ではなかった。
漆黒の渦がとぐろを巻き、全方位を闇が埋め尽くす。
ここは狭間の世界。かつては光と闇が拮抗し、無数の可能性が生まれては消える混沌の領域だったその場所も、今はただ闇だけがたゆたい、完全に凪いでいた。
もはや、この狭間において新しい世界が誕生することはない。この狭間におけるエントロピーはある時をピークにマイナスに転じ、まもなくゼロになるだろう。
なぜこの場所の可能性は潰えたか――――?
その最大の原因である窮極の存在が今、彼らの航路を遮った。
「行ってください団長! ここは俺が引き受けますッ!」
「……ッ! アッシュ……お前まで……なぜお前たちは俺のために……っ!?」
闇に支配された狭間の領域。
今その領域の一角で、全長数十キロメートルにも及ぶ巨大な人工物が、漆黒の闇そのものに囚われ大きく傾いた。
その人工物の内部。闇が迫る通路で、負傷した黒髪の女性を抱いて必死に駆ける灰褐色のローブの男。そして最後まで二人に付き従っていた青い髪の青年――――アッシュ・ヘテロジニアスがぴたりと足を止め、闇へと対峙した――――。
それは箱船。滅び行く世界から新天地を目指し、救いを求めた人々を乗せて跳ぶ希望の船。しかしその船はすでに半ばまで闇に喰われていた。喰われた先はすでに咀嚼され、砕かれ、全てが跡形もなく消滅している。
当初、この箱船は数百もの船団を組んでいた。億を超える人々が乗り込み、一人の男を長とし、滅び行く狭間から誰も見たことのない新しい世界へと移住する予定だった。
しかしそれは阻まれた。この狭間における可能性、その全てをあらかた食い尽くした混沌と闇の化身――――万祖ラカルムによって。
「行って……貴方だけでも……私は、もう……っ」
「ふざけるなッ! 俺はお前たちに約束した! お前たちも門の先に連れて行くと! 俺たちを縛る門を全て破壊し、自由を手に入れてみせると! それが、俺だけ逃げるなどと――――!」
「ふざけてるのは貴方でしょう! 俺たちは皆団長の力になりたくてここまで着いてきたんです! 全部、貴方に新しい世界を見せたいからだ! 最後の門をぶッ壊すんでしょう!? それともこんなことで諦めるようなくだらない夢で俺たちを欺いたって言うんですか!? 違うでしょう!?」
もはや闇は眼前まで迫っていた。箱船は闇の中で鈍い光と爆発の閃光を発するが、それはすぐに黒く塗り潰され、背景の闇と同化する。
アッシュは叫び、闇に向かって一度だけ厳かに頭を下げて礼をすると、凄絶な決意を秘めた最後の構えをその場で取る。
神々しいばかりの純銀の領域が大きく展開され、迫る闇を押しとどめる盾となってその場に輝く。
「俺の次元だってこいつに喰われたんです。あのときは手も足もでませんでしたけど……っ! いいリベンジマッチって奴ですよっ! なんならここでこいつを倒して、後から追いつきますから!」
「アッシュ! すまない――――!」
そのアッシュの決意を見たローブの男は、傷ついた女性を抱え直して通路の後方へと走り去る。アッシュはその男から発せられた言葉に苦笑すると、おそらく彼の人生において最後となるであろう、幾度となく繰り返した必殺の動作を開始する。
「――――謝るなんて、らしくないですよ団長。貴方はいつだってえらそうにふんぞり返ってればいいんです。 ――――さあ、来い次元喰い! ディ・エスタニアにおいて最も手強いと謳われたこのアッシュ・ヘテロジニアス、この場で貴殿に再戦願おう!」
最後に放たれた一際大きな閃光を最後に、箱船は闇に飲まれた。
しかしその船が闇に飲まれるより速く、一隻の小型船が箱船から脱出した。
脱出した小型船は即座に次元跳躍を開始。数万、数億という光年を飛び越え、本来であれば無数の人々と共に到達するはずだった場所へと駆けた。たった、二人で――――。
「くそ――――っ! ラカルムめ! 忌まわしき次元喰いめッ! 許さん……よくも俺を虚仮にッ!」
船の操縦席で何度も、何度も呪詛を吐くローブの男。
隠蔽は完璧だったはず。ラカルムの特性は全て研究済みだったはず。ラカルムの目をかいくぐり、最後の門を開放する。今まで彼がやってきたことは、全てがそのためだった。
何故この狭間の可能性は潰えたか。一つは次元喰い、万祖ラカルムによる暴飲暴食。そしてもう一つは――――。
「ここに来るために、一体いくつの門と世界を破壊してきたとッ! その苦労が、なにもかも水の泡だ! クソッ! クソッ!」
それは、あまりにも身勝手な独白だった。
男は、自らの世界で救世主と呼ばれていた。箱船を建造し、世界を襲ったラカルムの脅威から人々を連れ、宇宙の外、狭間の世界へと飛び出した。
しかし一方では、その救いの最終段階で必要となる門の破壊を推し進め、ラカルムと同じほどの速度であらゆる世界を滅ぼして回った。
しかし男も、男に付き従った者達にもそれ以外にラカルムから逃れる手段はないと信じていた。彼らの行いは、純然たる正義と希望の名の下に行われていた。
数多の次元を破壊して回る二つの存在。その結果が今のこの闇に包まれた静寂の狭間だった。しかしたった二人になったとはいえ、彼の希望は未だに潰えてはいない。
各世界に必ず一つ存在する次元の門。実は狭間の領域には、そんな小さな門など比較にならぬ、全ての根源たる門が存在する。その門こそが、狭間の世界すら越えて別の狭間への移動を可能とする究極の門だ。
星の向こうには宇宙があり、宇宙の向こうには無数の宇宙が可能性の数だけ浮かぶ狭間の世界が存在する。ならばその狭間の向こうにはなにがあるのか?
男は、たった一世代でその疑問の答えにまで辿り着いた存在だった。
その門の向こう側にさえ行くことが出来れば、そこには万物の脅威たるラカルムも存在せず、全ての人々はまた平和に、永遠にその歴史を紡ぐことができる。男はそう信じていた――――。
「見えたぞ――――! 見ろ! やったぞ、ついに俺たちは辿り着いたんだ! あれが最後の門だ――――!」
――――そこは、あまりにも不可思議な領域だった。
何もない、闇すらも晴れた虚空の先に、漆黒の立方体が浮遊していた。
各辺の部分は赤く輝き、立方体を構成する一方の面には、まるで小型船が来ることをわかっていたかのように、大きく口が開かれていた。
男は、彼自身でも驚くほどに高揚した口調で傷ついた女性へと声を上げた。女性はもはや答えることも出来ぬほどに衰弱していたが、まだ息はある。
男は女性がまだ無事であることを確認すると、できる限り気遣いながら抱え、立方体の内部へと着陸させた小型船を下りてその門の前へと向かった。
男の胸は高鳴っていた。彼の人生は、全てがこの瞬間のためだった。
自由。
なに者にも、どんな領域にも阻まれぬ真の自由。男は今、ついにそれを手に入れるはずだった。だが――――。
『――――こんなところまでよく来たものだ。お疲れ様だな』
声が、男の足を止めた。
門は目の前だった。
今まで数え切れぬほど破壊してきた次元の門とさして変わらぬ姿の巨大な門が、そこにはあった。しかし、そこにあったのは門だけではなかった。
「お、お前は――――嘘だ、まさか、そんなことが――――あるはずが――――」
男の体がガクガクと震え、足がふらつく。
呼吸が浅くなり、全身から汗が噴き出す。
人が居たのだ。門の前には人が居た。男よりも先に、その場所に。
門の横。出っ張りとなった石壁の部分に腰をかけた人影がゆっくりと立ち上がる。
黒い髪に青い瞳。古めかしい中世の全身甲冑を身につけた、一人の男が。
『俺の名はヴァーサス。この門を守る門番だ。残念だが、お前たち二人にこの門の通行は許可されていない――――』
狭間の門の前。
待っていた男の名はヴァーサス。
全ての可能性が消えた狭間の闇の中。
ヴァーサスと名乗った男はそう言って、男の前に立ち塞がった――――。