「――ふんふんふーん。むむ!? これは!? いいですね、今日のお昼はこれにしましょう……先に水に漬けて、と……」
家のドアの前に立つと、機嫌の良さそうなリドルの声が聞こえてくる。
ここ最近、リドルはずっとご機嫌だった。それもそうだろう、ずっと心を悩ませていた門に関連するトラブルはぴたりと止み、毎日は平和そのものだ。
ヴァーサスが怪我をすることもなくなり、仕事も日々の生活も順風満帆。懸念があるとすればヴァーサスの過去だが、たとえそこに何があろうとも、リドルは自分とヴァーサスの二人が力を合わせて乗り越えられない困難など、決してあるはずがないと信じていた。そして――――。
「あれ? どうかしましたか?」
「う、うむ……」
振り向いたリドルの前に、門番活動を開始したはずのヴァーサスが立っていた。リドルは一瞬珍しいこともあるものだと驚きの表情を浮かべたが、すぐににっこりと微笑んでヴァーサスの前にぱたぱたと駆け寄ると、その頬に軽く口づけする。
「むふふ。もしかして……私がいなくて寂しくなっちゃったりしましたか? もしそうなら、今日は門番活動はお休みして一緒に花園のお手入れにしましょうか?」
「い、いや……そのだな……」
「どうしたんです? なんかさっきから様子がおかしいですね? お腹壊しましたか?」
幸せそのものと言った様子のリドルを前に、俯き、口ごもるヴァーサス。
リドルだけではない。当然ながらヴァーサスにとっても、ここ暫くの平和で穏やかな日々は人生で体験したことが無いような幸福な時間だった。
リドルとヴァーサスの互いに対する信頼と愛情はとどまることがなかった。二人にそのような認識はなかったが、二人は出会ってから一度たりとも互いに対して失望した、がっかりした、裏切られたと感じたことがなかった。
ただ共に暮らす日々の中で互いへの信頼と尊敬だけが積み重なり、それに比例して愛も深まっていく。そんな生活を幸せと呼ばずになんと呼ぶのか。脳筋のヴァーサスも、こればかりはさすがにはっきりと自覚していた。
だからこそ――――。
「リドル、聞いてくれ。大切な話があるのだ」
「大切なお話、ですか? ――いいですよ。なら、今お茶入れますね」
――――だからこそ、全てを話しておきたかった。
リドルはヴァーサスの言うその大切な話という言葉を聞いて、むしろ少し浮ついた様子すら見せて棚から茶葉の入った缶を取り出し、まだ熱の残るポットからお湯を注ぎ入れていく。
今まで何度も見てきたリドルのその姿に、ヴァーサスは胸が締め付けられるような思いを感じていた。たとえどんな強敵を前にしても、こんな苦しみを味わったことは一度たりとも無かった。
「――はい、どうぞ」
「ありがとう、リドル……」
爽やかな香りが漂うカップを二つ、テーブルに置くリドル。
リドルは少し頬を染め、そわそわと落ち着かない様子で椅子に座ると、その赤い瞳でじっとヴァーサスを見つめた。
「それで、ヴァーサスの大切なお話ってなんなんでしょう? 実は私、先ほどそう言われてからずっと胸がどきどきしておりまして…………たはは……てれてれ……」
照れたように赤く染まった頬をに手を当てるリドル。
しかしヴァーサスは目の前に置かれたカップを見つめ、いつまでたっても飲む様子を見せない。
「……ヴァーサス?」
ことここに至り、さすがにリドルの顔色が変わった。
様子のおかしいヴァーサスに、リドルは何かあったのか尋ねようと口を開こうとした、その時に――――。
「――――リドル。俺の命は後三時間もないらしい。先ほど門の前にラカルム殿が現れ、俺にそう言った」
「――――はい?」
瞬間。リドルの瞳がぶれる。
まるで、全く聞いたことのない、理解しようのないデタラメな言語を聞いたかのような反応。
「――え? ちょ、ちょっと待ってくださいよ……命があと三時間って……え? それって、ヴァーサスの命がってことですか?」
「うむ……ラカルム殿が言うには、助かる方法はないらしい……俺も、確認はしたのだが……」
「…………なん、ですか……それ…………」
リドルが手に持っていたカップが音を立ててテーブルに落下する。
カップの中身が零れ、木製のテーブルの上にゆっくりと広がっていく。
しかしリドルもヴァーサスも、どちらも動くことはできなかった。
「い、いやはや……さすがにうそ……ですよね?」
「……嘘ではない」
「嘘っ! 嘘ですっ! 嘘だって言ってください……! こんなの……っ! 全然面白くないじゃないですか……っ!」
気づけば、リドルの透き通った瞳からは大粒の涙が零れていた。しかし今のヴァーサスには彼女の涙を拭うことはできない。悲痛な表情を浮かべ、取り乱すリドルへと謝罪の言葉を述べる。
「すまない……」
「そんな……あやまったって……意味ない……っ」
リドルはそう言うと、少しの時間を置いてからふらりと椅子から立ち上がった。
彼女の足取りは覚束ず、その赤い瞳は先ほどまでの涙がすっと引いたように冷たく、座っていた。
「そんなこと……この私がさせるわけないじゃないですか…………させるわけ……っ」
「……リドル?」
リドルは一人、ぶつぶつとなにやら呟きながら部屋の奥へと消えると、すぐに愛用の肩掛け鞄を持って戻ってくる。そしてヴァーサスの手を持って強引に椅子から立たせると、再び溢れ出した涙を隠すようにしてその胸に顔を埋めた。
「行きますよ……っ! あなたは私が助けます……っ! あなたが死ぬなんて……消えるなんて……そんなの、絶対に許しませんから……っ!」
リドルは叫び、その決意に満ちた赤い瞳に、白く輝く門を映し出した――――。