ぴよぴよと小鳥が戯れているのが窓から見えた。
この診療所に運び込まれ、すぐに治療を受けたヴァーサス。未だ記憶は戻らないままだったが、すでに傷は跡形もなく治療――というか消滅させられ、はっきり言うとここに来る前よりも健康な状態だった。
先ほどまでは謎の悪寒に襲われていたヴァーサスだったが、やはり体と心は切っても切り離せないもの。体が回復すれば心もつられるのか、眩しさすら感じる夏の日差しの下、少しずつ元気が沸いてくるのを感じていた。
自分をこの診療所に運び込んでくれた、二人の美しい女性の必死な顔を思い出す。自分と彼女たちがどういう関係だったのかは思い出せなかったが、それでも今あの二人のことを思うと胸が温かくなり、二人の悲しい表情を思い浮かべると締め付けられるように胸が痛んだ。
きっと、自分にとって二人はかけがえのない大切な存在だったのだろう。そんな二人に心配をかけてしまったこと、そしてこんな自分にも心配してくれる誰かがいることが、ヴァーサスのともすれば気弱になってしまう心を励ました。
「早く元気になって、二人を安心させなくてはな……」
大きめのベッドから半身を起こし、一人呟くヴァーサス。
今はとにかく一刻も早くこの霞のような記憶を明確にし、心配をかけてしまった二人に自分を助けてくれたことに感謝を伝えよう。ヴァーサスは、そう固く決意するのだった――――。
コンコン――――。
「――失礼しますよ。お体の調子はどうですか?」
その時、控えめに、しかしはっきりとしたノックの音が響いた。
木製のドアを開け、ゆっくりと中に入ってきたのは、白と黒を基調にした服に、赤いリボンネクタイをつけたショートカットの女性――。
「――心配をかけてしまい、大変申し訳ない。そして、先ほどは俺をここに運んでくれたこと、心から感謝する――」
「たはは……そんなかしこまらなくていいんですよ。私たちの仲じゃないですか! ――って、まだあまり思い出せてはいない感じですかね? お体でどこか悪いところはありますか?」
「記憶はともかく、体はもう大丈夫のようだ。改めて、心配をかけてすまない」
「ふふっ……色々忘れてても、やっぱりヴァーサスはヴァーサスなんですから……」
ヴァーサスはそう言うと、目の前の女性にできる限りの笑みを浮かべた。女性はヴァーサスが浮かべた笑みから何かを感じ取ったのか、嬉しいような、困ったような、はにかんだ笑みを浮かべる。
そして少しだけ間をおいてから、こう切り出した。
「でもでも、それでも私のことまで忘れちゃうのは酷いと思うんですよ。ほんっとうに何も思い出せませんか? 私の名前とか、今までのこととか。さっぱりです?」
「うぐっ……申し訳ない……もし良ければ、少し俺に教えてくれないだろうか。そうすれば思い出すかもしれない」
「それはたしかに! 本当はヴァーサスに自力で思い出して欲しいなーなんて思っていましたが、こうなってしまってはあなたが早く元通りになるのが最優先ですね!」
女性はそう言うと、口元に手を当ててコホンコホンと咳払いをし、その整った美しい顔と大きな透き通った赤い瞳をヴァーサスへとまっすぐに向け、口を開いた。
「私はリドル・パーペチュアルカレンダー。貴方の恋人です。三ヶ月前からは同じ家の同じ部屋でずっと一緒に暮らしてる仲なんですよ? もちろん……こんなことだってしちゃってます――――」
「――っ!?」
リドルと名乗った目の前の女性はそう言うと、すっと身を乗り出して一切の躊躇無くヴァーサスの唇に自分のそれを重ねた。
ヴァーサスはリドルのその行動に大層驚いたが、重ねられた唇から伝わる、自分を心配するような、慈しむようなその感触は彼の心を驚くほど落ち着かせた。
「ん――――どうですか? なにか思い出せましたか?」
「あ、ああ……いや、具体的にどうというわけではないのだが……俺にとって、君が大事な存在だと言うことは痛いほどわかった……なんというのか、思い出せないが、わかるのだ。間違いない、君は俺にとって、なによりもかけがえのない存在だ」
「たははは……さすがにおとぎ話みたいに上手くはいきませんね。でも……いいんです。あなたの言いたいこと、私にも凄く良くわかりますから――」
言うと、リドルはさっと身を翻すようにして椅子から立ち上がると、さささっと扉を開けて部屋から出る。そして開いた扉から顔だけをヴァーサスに覗かせて、かわいらしい笑みを浮かべた。
「――早く元気になってくださいね。あなたは、私の大切なたった一人の門番様なんですから!」
「――ああ! ありがとうリドル!」
「ふふっ! ではまた後ほど!」
リドルはヴァーサスのその受け答えに安心したのか、満面の笑みを残して扉から消える。だがなんだろうか……確かに今のやりとりを自分は数え切れないほど彼女とした気がする。それくらい自然に体から熱いものがこみ上げてくる――。
門番――――。
その単語を思い浮かべただけで全身に力が漲り、自分でも気づかぬうちに、その青い瞳にバチバチと雷光が瞬く。
あと少しで何かを掴める。
そうしたら、真っ先に彼女に謝らなくては。あれほど自分のことを想ってくれている大切な女性にこれ以上の心配をさせてはいけない。
ヴァーサスは改めてそう決意すると、自身の回復を早めるべく、今のリドルとの会話を思い出そうとする。だが――――。
コンコン――――。
「――失礼します」
先ほど閉じられたばかりの木製のドアが再び開かれる。
ゆっくりと、しかし明確な決意を秘めたようなノックの後に現れたのは、清楚さと可憐さを感じさせる薄青色のワンピースを着た小柄な少女――――。
その少女は長い黒髪と大きく丸い銀色の瞳が印象的な、どこからどうみても一国に一人いるかいないかという程の美少女であった。
少女はヴァーサスの姿を見て僅かにその瞳を潤ませると、精一杯の笑みを浮かべてベッド横の椅子に腰掛ける。
「良かった……お元気になったみたいで、本当に良かったです……っ」
「君にも心配をかけてしまったようですまない…………だが、あの凄まじい姿の先生が言うにはそれほど大事ではないそうだ。俺もこのとおり回復した! 元気満々だ!」
ヴァーサスはそう言うと、むんむんと腕を振り回して自身の回復をアピールした。少女はそんなヴァーサスの姿を見てその可憐な表情ににっこりと笑みを浮かべると、自分もヴァーサスの真似をするように腕を振り回してみせた。
ヴァーサスには、なぜかこの目の前の少女とのそんなやりとりを何度もした気がして、『ああ、やはりこの少女も自分にとって大切な存在なのだ』という明確な気づきを得る。
ならば、やはりまずは少女の名前や自分との関係性を尋ねなくては。
本来ならばリドルが言ったように自力で思い出せるのが一番なのだが、今はそれもままならない。ヴァーサスは自分の不甲斐なさを深く反省しながらも、失礼の無いように目の前の少女に正直に尋ねた。
「――すまないが、改めて俺に君の名前と俺との関係を教えてくれないだろうか。こうしていると、俺にとって君がとても大切な存在だったことがとても良く伝わってくる。だからこそ、君の事がはっきりと思い出せないのがもどかしいのだ」
「し、師匠…………っ!? 私のこと……そんなに…………っ」
少女はそのヴァーサスの言葉を受け、何かをこらえるように、隠すようにさっとその顔を俯かせる。まっすぐ伸ばされた両の手が少女の小さな膝の上でぷるぷると震え、なにかを我慢するようにぎゅっと握り締められている。
数秒の間の後、少女はうるうると輝いた銀色の瞳をヴァーサスへと向け、決意を込めた言葉を一息に発した。
「私の名前はミズハ・スイレンと申します……ししょ……いえ、ヴァーサスさんとは、結婚を前提にお付き合いさせて頂いておりますっ! 将来を誓い合った仲です――っ!」
「な――っ!?」
瞬間。ヴァーサスの思考は完全にフリーズした。
ミズハと名乗った目の前の少女はそんなヴァーサスの様子にもひるまず、明確な決意と共にまっすぐにこちらを見つめていた――――。