二度目の事務所を見る門番
二度目の事務所を見る門番

二度目の事務所を見る門番

 

 巨大な街にいくつも伸びる大通りを越え、僅かに奥まった場所に建つオフィスビルの一室。

 先導するシトラリイが扉を開けて室内へ入ると、そこには整理整頓された書類や金属製のテーブルに椅子。用途不明の機械類が整然と置かれた空間が広がっていた。

 シトラリイの入室を感知したのか、天井の照明が自動的に点灯する。冷たい白が室内を照らし出し、僅かな機械の駆動音が室内に響いた――――。

 

「お邪魔する!」

「狭い事務所ですみません。普段は僕以外使っていないので――――アツマさん、コーヒー入れるの手伝って下さい。まさか僕一人に八人分用意させるつもりですか?」

「あ、ああ……今行く」

 

 ヴァーサスたちの座る場所を淀みなく用意したシトラリイは、スーツの上着をコート掛けに預けると、クロガネに目配せして自身と共にその部屋の奥にある狭いキッチンへと入っていく――――。

 

「――――随分遅かったですね。一人で逃げたのかと思いましたよ」

「悪い……遅くなった」

 

 薄暗く狭いキッチンの前。
 電子式のコンロにスイッチを入れ、湯を沸かすシトラリイ。

 真っ白な染み一つ無いワイシャツに灰色のネクタイ。ショートカットの青みかかった黒髪と、透き通るような深い濃紺の大きな瞳――――。

 あのような格好をしているとわからないが、シトラリイはれっきとした女性である。探偵として荒事をこなす際、女性と見られればより危険を増やすことになるため、あえて中性的な格好と物言いを彼女は好んだ。

 忘却の彼方でも決して忘れることのなかったシトラリイの美しい横顔を、クロガネは息をすることも忘れて見つめた――――。

 

「――――でも……戻ってきてくれて、嬉しかったです」

 

 ――――シトラリイは、クロガネに視線を向けること無くそう呟いた。

 シトラリイの発したその言葉に、クロガネは胸をかきむしりたくなるほどの苦痛を覚えた。クロガネがその言葉を聞いたのは二度目だった。一度目は、もういつだったかすら思い出せないほどの過去――――。

 場所はキッチンではなかったが、その言葉の音色も、抑揚も――――全てを過去に置いてきてしまったクロガネにも、シトラリイと過ごした時間の記憶だけははっきりと覚えていた――――。

 

「――――なにかあったんですか? さっき僕の顔を路上で見たときも、まるで幽霊でも見たような情けない顔をしてました」

「……っ」

 

 クロガネは必死に思考を回転させていた。この世界は間違いなく虚構なのだ。シトラリイも、この街も、その全てが今はもう存在していない。彼が守ろうとしたこの世界は、クロガネの目の前で音も無く崩れ去ってしまった。

 ならばどう説明すれば良いのか。少なくとも今のクロガネはヴァーサスたちと共にこの街に魔王を倒しに来たのだ。そうしなければ元の世界に戻ることはできない。

 しかし今目の前にいるシトラリイはそうは思っていない。この街に迫る危機を打開するべく、クロガネが協力者を連れて期日ギリギリではあるものの戻ってきてくれたと思っている。

 そして、クロガネは良く知っていた。

 目の前にいるこのシトラリイ・イングリスという女性は、ただの探偵ではない。紛う事なき推理と思考の怪物だ。そんなシトラリイに対して、隠し事をしながら共に行動するなど不可能。クロガネは、そう判断した――――。

 

 ●    ●    ●

 

「――――ここが、バーチャルリアリティーの世界……ですか……」

「ああ、そうだ……お前にはそういう自覚はないのか?」

 

 冷たい事務所の中、コーヒーの良い香りと暖かさがじんわりと室内に広がっていた。小さなクマのキャラクターが描かれたマグカップを両手で包むようにするシトラリイは、クロガネの話したその内容を吟味するように黙考する。

 それもまた、クロガネがよく知るシトラリイの姿――――。

 シトラリイは子供の頃に両親から贈られたそのカップが特にお気に入りだった。そして、内心に動揺を覚えるとそのカップに描かれたクマのイラストを手のひらで包むようにして持つ。全て――――クロガネの記憶のままだった。

 

「ありませんね。それどころか、物心ついたときからの記憶も全て説明できます。どこかで記憶が途切れていたり、思い出せないようなことはありません。ですが――――」

 

 シトラリイはそこで言葉を句切ると、自分を見つめるヴァーサスたちに目を向け、最後にクロガネへと視線を向けた。

 

「僕は――――たとえ僕自身が虚構の存在だったとしても、目的を諦めるつもりはありません。僕一人でも、リストは破壊してみせます」

「おいおいおい……俺から話しておいてなんだが、そんなあっさり納得できるもんなのか? もし俺がお前の立場なら、速攻で俺たち全員を病院にぶち込んでるところだぞ?」

「僕にとって、世界の真偽や自分自身の存在の真偽は重要ではありません。重要なのは、僕にとって看過できない事態がもうすぐ目の前に迫っていることです。その事態の阻止にあなた方が手を貸してくれるというのなら、僕がやることは変わりません」

「相変わらずだな……」

 

 大きく一つ息を吐き、僅かに見せた動揺すら押さえ込んで平然と言い放ったシトラリイに、クロガネは眉を顰めて詰め寄る。だがシトラリイはその美しい相貌に決意だけを宿し、淡々と答えた。

 

「あなたたちが言う魔王――――それは恐らく、AMGフラグメントのギルバート・スミスのことではないでしょうか。もしそうなら、あなた方の目的と僕の目的は一致しています」

「ふむふむ……そのギルバートという方はどのような?」

「先ほどあなた方も見たとおり、この世界の人間の体には特殊なチップが埋め込まれています。ギルバートは、そのチップの制御権を握っているんです。チップには特殊な機構がいくつか備わっていて、ギルバートがその気になれば、全世界の人類を一瞬で殺害することも、意のままに操ることも可能です」

「ほほう……いかにも小物が目指しそうな支配体制の構築手段ではないか。大方、当初はそのチップも利便性のみを謳い、そのような真意は隠して市井での利用を拡大させたのであろう?」

「そうですね。黒姫さんの仰る通り、各国の政府が気づいた時には後の祭りだったみたいですよ。ほぼ全ての人類を人質に取られたようなものですからね」

 

 シトラリイはそう言うと、その濃紺の瞳に決意の光を宿し、淀みなく言い切る。

 

「明日――――僕は、ギルバートを殺します」

 

 ●    ●    ●

 

「悪かったな……なんか変なことになっちまって……」

 

 その日の夜。

 僅かな明かりの灯るオフィスの中、物思いに耽るシトラリイにクロガネが声をかける。すでにクロガネの服装は現実世界と変わらぬ出で立ちになっていた。

 

「……タバコ、止めたんですか?」

「ん? ――――ああ、そういや最近ずっと吸えてねえな」

「僕があれだけ言っても止めなかったのに――――本当に、僕の知ってるアツマさんじゃないんですね」

 

 クロガネに視線を向けず、僅かな寂しさを感じさせる声色で呟くシトラリイ。クロガネは自身のボサボサの髪をかき上げると、居心地が悪そうにぐるりと視線を回した。

 

「うまく説明できないんだが……とりあえず俺は俺だ。ただ、ちょっとばかし距離がある……外じゃ、もう結構な時間が経っちまってて…………」

「――――なら、僕はもうそこにはいないんですね。 ――――ケンカ別れでもしましたか?」

「――――っ。ラリィ……俺は……っ」

 

 シトラリイのその言葉に、悔恨の表情をありありと顔に出すクロガネ。しかしシトラリイはそこで不意に穏やかな笑みを浮かべると、ようやくクロガネに視線を向けた。

 

「ふふっ……すみません、少し意地が悪かったですね。アツマさんは本当に探偵に向いていません。考えていることが顔に出すぎです」

「すまない……俺にはなんて言ったらいいのか…………」

「――――良かったですよ。僕が居なくなっても、アツマさんが一人で生きていけるのがわかって。意外と生活力あったんですね」

 

 椅子に座ったまま、見上げるようにしてクロガネをまっすぐに見つめるシトラリイ。その言葉通り、シトラリイの笑みには穏やかな、安堵の色が浮かんでいた。
 そしてそんなシトラリイの表情に、クロガネはぎりと奥歯をならし、肩を震わせて何かを必死に抑えようとしたが……――――それはすぐに終わった。

 

「――――っ。アツマ、さん――――?」

 

 気づけば、クロガネは包むようにして椅子の上のシトラリイを抱きしめていた。

 それはかつて……一度目の時には最後の瞬間まで決してすることの無かった、精一杯の抱擁――――。

 

「悪い――――嫌だったら言ってくれ。すぐに離れる」

「そうやって事後申告するの……悪い癖ですね。 ――――嫌じゃ、ないですよ」

 

 シトラリイは静かに呟くと、自身を抱くクロガネの背にそっと自分の腕を回すのであった――――。

 

 

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