豪華客船ダイタニック号は新大陸を目指している。
新大陸とは言ってもすでに発見されてから百年以上が経ち、大陸の各地には大きな街もいくつも建設されている。
ダイタイニック号は海洋を越えて新大陸第一の都市であるニューエデンへと寄港したあと、そのまま新大陸の内海へと進み、そこから海峡を抜けて再び大海へと。この大海はミズハの生まれ故郷である東の島国にも面している世界最大の海だ。
そしてそのまままっすぐ西へと進み、門番ランク2、天帝ウォンが住む大国カイリに立ち寄る。そしてそこからぐるりと大陸を南回りで巡った後、ナーリッジ近傍へと帰還する。
その全日程は実に百二十日にも及ぶ大航海だ。しかしながら、リドルとヴァーサスは仕事や門のこともあるため、出港から六日後に新大陸の街ニューエデンへ寄港した時点で下船し、帰国の途につくことになっていた。
メルトの護衛を開始してから三日。出港から四日。
あの吸血鬼騒動以降、ダイタニック号の船旅は順調そのものだった。
これといってなんの事件も起こらず、せいぜい酔った客同士のいざこざが起こる程度。
実はメルトだけでなく、最近はヴァーサスの門番としての世間の知名度も上がってきており、初日の事件の際の館内報告でも、メルトと共にヴァーサスも乗船していることが船内に放送されていた。
閉鎖された逃げ場の無い空間に強力な門番が二人。それはいかに剛毅で自信家の犯罪者であろうとも、恐れをなして心が折れるであろう状況。
しかもメルトの護衛を行うヴァーサスとリドルは、船旅を満喫しつつも一切の油断なく周囲の警戒を継続している。メルトもこの三日間ですっかり元気を取り戻し、久しぶりのオフを楽しむ余裕も出始めていた。
「はぁーー……今日もすっごく楽しかったです……こんなにゆっくり出来たのって、生まれて初めてかも……」
「やっぱり色々大変なんですねぇ……あまり無理しちゃいけませんよ? 健康第一です!」
「そうだな! 一度ドレスに相談してみてはどうだ? ドレスならきっとメルト殿の日程も完璧に仕上げてくれるはずだ!」
「あ! それいい考えかも! 今度ドレスさんに頼んでみます!」
航海開始から四日目の夜。館内で開催された大サーカスを見終わった三人は、自室へと戻る通路を歩いていた。
「サーカスというものは初めて見たが、皆いい動きをしていた! きっと素晴らしい門番になれるだろうな!」
「どうでしょう? 私はヴァーサスを見慣れてるせいか少々物足りなかったですよ。やっぱり私の旦那様が一番です!」
「あんな高いところに昇っても平気っていうだけで凄いです! 私だったら気絶してます!」
ニコニコと笑みを浮かべ、思い思いの感想を口にする三人。
ダイタニック号で提供されるサービスはどれも素晴らしく、前日は本格的な音楽鑑賞会が開催されていた。ヴァーサスは寝ていたが。
豪華なだけでなく、自由に食べることの出来る料理や飲み物。数々のリラクゼーション施設に広々とした船室。
しかもダイタニック号はその巨体のおかげで全く船内で揺れを感じることが無かった。船酔いを心配する必要も無いのだ。
まさに人々の理想の楽園を海上に再現したかのような、ダイタニック号での素晴らしい船旅。しかし――――。
――――このときの三人は知る由も無いが、実はこの四日目の航海中、ダイタニック号の船長は八件にも及ぶ航路先に浮かぶ氷山への警告を無視。同航路での最速記録樹立をオーナーから厳命されていた船長は、安全よりも速度を優先した。
更には目視での警戒を担当する航海士が業務に使用する高性能双眼鏡を紛失。古ぼけた予備の双眼鏡での監視を余儀なくされ、この旧式の双眼鏡は夜間視認能力がほとんどなかった。
豪華客船ダイタニック号はそんな目視不可能の闇の中を、日中と変わらぬ最高速度で突き進む。
今、ダイタニック号を囲む冷たい海は静かに、しかしどこまでも暗くその大口を開き始めていた――――。
「――――! 来ましたよヴァーサス。そろそろかとは思っていましたが、ついに我慢できなくなったみたいですね!」
「わかった! メルト殿、俺とリドルの間に!」
「えっ? どうしたんですか?」
船内を進む三人がダイタニック号の各区画を連結するエントランスロビーへとさしかかった時である。メルトを保護して以降、この船全体に領域を展開していたリドルがヴァーサスに向かって声を上げた。
私服のままのヴァーサスはメルトを自分とリドルで挟むように庇うと、エントランス全体へとその視線を巡らせた。すると――――。
『フハハハハハ! 見事だ、門番ヴァーサス君! なぜこのタイミングで我が輩が現れることに気づいた?』
瞬間、数十メートルもの高さの吹き抜けとなっているエントランスロビーの上層から黒い影が落下してくる。
その影は見事に音も立てずロビーの支柱へと着地すると、大仰にその黒い外套を翻し、人々の前にその姿を現わす。
「貴様が怪盗那由多面相か!?」
『いかにも! 我が輩が怪盗那由多面相よ! しかし質問に質問で返すとは無礼な奴! 貴様、さては子供の頃テストで名前を書き忘れて0点になるタイプの脳筋だな……? 我が輩の質問に答えよ!』
「俺は名前を書いても0点だったぞ!」
「――私の力で船に乗っている三万人、全員の座標を見てました。四六時中ずーっとメルトさんや私たちからつかず離れずの距離をウロウロしてる座標を探すなんて簡単なことでしたよ。今まで捕まえずに楽しい船旅を満喫させてあげたんですから、感謝して欲しいところですね!」
「え……ええええ!? り、リドルさんそんなことしてた……というか、人ってそんなことできるんですか!? え? なんなのこの人……?」
「フッフッフ! 何を隠そう私はただの宅配業者! そしてヴァーサスの妻です!」
「そして俺はリドルの夫で門番だ! 怪盗那由多面相よ! 大人しく捕縛されるなら手荒なことはしない! メルト殿にこれ以上危害を加えるな!」
謎のポーズをビシっと決め、メルトの前に立つリドルとヴァーサス。
のんびりと新婚旅行を楽しんでいる二人だが、この二人はそうと望めばそれこそ全宇宙を支配するなど容易いほどの全能の近似値である。並の相手であれば二人の前に立つことすら許されない。しかし怪盗那由多面相はマスクの下に不敵な笑みを浮かべる。
『ククク……面白い。それでメルト君を守っているつもりかな? メルト君を真の意味で守れるのはこの我が輩だけなのだ! メルト君! 君は籠の中に囚われた哀れな鳥だ! 常に監視され、守るなどと言われながらその実君は拘束されているのだ! 我が輩が今、その檻から君を解き放ってあげよう!』
「うっ! そう言われると確かにちょっとそうかもって思うかも――――けどっ! みんな私を嫁にするとか言ったり、あんなドン引きの手紙とか出したりしないから!」
『今はそう思っていても、自由を手に入れた君は必ず我が輩と共にいることを選ぶだろう! さあメルト君! 大人しく我が輩の嫁になるのだ!』
「そういうこと言う人絶対無理ですーーっ!」
「――――来るかっ! ならば致し方ない! リドル、周囲の人々を頼む!」
「お任せあれ!」
怪盗那由多面相がその漆黒の外套を大きく広げる。その外套に隠された全身には無数の用途不明のアイテムが収納されており、恐らくこの男が怪盗を呼ばれるゆえんとなった多数の能力を備えているのだろう。
リドルがその気になれば、怪盗を一瞬で別座標に跳ばすことも当然可能だった。通常の戦いであればそれで決着だっただろう。
しかし今回、二人は今後一切メルトが怪盗のストーキングに悩まされることが無いようその身柄を完全に確保すると決めていた。
身構えるヴァーサス。怪盗が身を屈め、三人めがけて飛びかかろうとする。だがその瞬間――――!
「キャアアアア! 誰か! 誰か助けてーー!」
「――ッ!?」
対峙する双方の間を、全く別の黒い影が横切る。
よく目をこらしてみれば、その影は無数のコウモリ――――。
『ウリィイイイイイ! 限界だッ! たとえ門番がいようと、これ以上血を吸わねば俺の体が干涸らびてしまうッ!』
コウモリが空中に集まり、やがて一つの影へと収束。収束した影は痩身痩躯の男性の形を取り、エントランスロビーの壁面へと重力を無視して逆さまに着地する。
「ぎゃー! またなんか出たー!」
「吸血鬼まで来たか!」
「さすが吸血鬼は格が違いましたね! 私の座標監視でも特に妙な動きはありませんでしたよ!」
『ぬう!? 吸血鬼だと? 我が輩と衣装が被っておるではないか!』
『ウリイイイイイ! 最後に飲んだ血が干涸らびたジジイだったのも気に食わん! 若い血だ! 若い血をよこせッ! 死にたくなければなぁ!』
目を血走らせ、周囲の客員へと今にも襲いかからんとする吸血鬼。即座にヴァーサスはリドルへと目配せする。怪盗と違い、吸血鬼は吹っ飛ばしても構わないからだ。だが――――!
衝撃。そして大きく傾く船内。
船全体を揺るがすような凄まじい衝撃がその場に居る全員を襲った。
『緊急事態発生! 緊急事態発生! 申し上げます! たった今ダイタニック号は氷山に激突しました! 船内の皆様におかれましては、落ち着いて上層デッキへの避難を開始して下さい!』
「な、なんですとー!?」
「ひええええ! なんなんですかこれー!?」
「なるほど! なんだかよくわからんが面白くなってきたな!」
――――豪華客船ダイタニック号。
無数の平行次元において、この船が沈まなかった因果は未だに観測されていない――――。